証言

「目の前で家族を殺されて」

 私は、1925年7月3日生まれです。事件当時は数え年で8歳でした。事件当時の家族は、父母、3歳の妹、祖父母(母方)と私の6人でした。父は炭鉱、母は火薬工場で働いていました。父は私のことを大変可愛がってくれました。父はサーカスや京劇を見に連れて行ってくれたことが印象に残っています。母は大変厳しい人でした。祖父は漢方医でした。家庭は比較的豊かで、私も8歳のときから私塾に通い、孔子や孟子の教えを習っていました。

 平頂山には仲の良い友だちが2人いました。私たち3人は、爆竹を鳴らしたり、ビー玉を蹴ったり、ビー玉で遊んだり、雀と捕まえたりして遊んでいました。しかし、この2人の友だちも平頂山事件で亡くなりました。
子どものころの一番楽しい思い出は、春節(旧正月)でした。新しい服を着せてもらい、爆竹を買ってもらい、ごちそうを食べさせてもらい、祖父母からお年玉をもらえるなど楽しい思い出です。

 事件の前日(1932年9月15日)は中秋節でした。私たち家族は中庭に集まり、この日父が買ってきた、月餅やナシやブドウをみんなで食べていました。
祖父がいろいろ話をしている途中で、私は話が終わるのを待ちきれず、手を伸ばして月餅を口に入れようとしました。すると母にすごく怒られました。それを見ていた祖父母が、かわいそうだからと言って、私と妹に自分の分の月餅をくれました。すると母が、祖父の月餅をもらってはいけないと言って、父と母の月餅を私と妹にくれました。
私は、これが最後の中秋節になるとは思ってもいませんでした。そうなるのであれば、父母の月餅をもらうべきでなかったと後悔しています。今は悲しい思い出として残っています。

 9月15日の夜中、私は、抗日義勇軍が平頂山の集落を通るのを見ました。この日、義勇軍が撫順炭鉱を襲撃しましたが、私も銃声らしい音を聞きました。
  翌9月16日の朝、平頂山集落西側のちょっと小高いところから、鉄兜をかぶった兵隊や銃を構えた日本兵を乗せた4台のトラックが来るのを、先ほど話した2人の友だちと一緒に見ました。トラックの何台かが牛舎の前で止まり、トラックから日本兵が降りてきました。私は、慌てて家に駆け戻り、「お母さん。大変だ。日本兵が来たよ!」「日本兵が村を取り囲んでいるよ!」と告げました。すると母は、「心配しなくていいよ。怖がらなくていいよ。」と言い、父が夜勤から帰るまで待つようにと慰めてくれました。
  その後、父が慌てて帰ってきました。父が言うには、平頂山に入ろうとしたら着衣などを調べられた後やっと入れたこと、平頂山から外へ出ることは一切禁止と言われたとのことでした。そして、平頂山で何が起きたのだろうと言っていました。
  そうすると、日本兵3人が、家の表門のところに来て、ドアをたたき壊して、荒々しく部屋の中に飛び込んできました。3人のうち1人が、中国語で、「匪賊がやってくるから大事なものをまとめて外に出ろ。」「お前たちは皇軍が守ってやる。」と言いました。父は「出て行くわけにはいかない。これは私の家だ。」と言いました。すると、別の日本兵が片言の中国語で「早く出て行け。出て行かないと殺すぞ。」と言い、銃床で父をめった打ちにしました。

 私は父に手をとられ、母は妹を抱き、祖父母がその後について、家を追い出されました。家を出たとき、平頂山の集落を南北に通っている大通りには、人が一杯で、その一番後ろに日本兵が銃を構えていました。
  私たちは、平頂山の集落の西側にある窪地のところに集められました。私たちがその場所に着いたときには、その窪地は人で一杯でした。その周りに日本兵がいました。その様子を見て、父は「何かおかしい。」と言って、人が集まっている中を奥の方に入って行きました。
  集められた人の中から、「なぜ我々をこうゆうところに閉じ込めるんだ。」「なぜ私たちにこういう仕打ちをするのか。」なとどいう抗議の声が上がりました。その後、将校が日本兵と通訳を連れてやってきました。将校は「君たちを集めたのはほかでもない。君たち中国人の生命、財産を守るためだ。」と言いました。そして、将校は匪賊がまだここから去っていないなどと言い、軍刀を抜き取りそれを東側の山の方向に向けて上げたとたんに、日本兵が銃を二、三発撃ちました。そこに集められた人たちは、その軍刀の示した方を見たところ、機関銃の一斉掃射が始まり、前列の人からバタバタ倒れていきました。
  そのとき、父は「危ない!」と言って、私の頭を押さえつけ伏せさせました。母と祖父母は伏せていました。母は妹を抱いていました。機関銃の弾が父に当たりました。また、私の近くに伏せていた人のおしりに弾が命中して、履いていた綿入れのズボンから白い綿が飛び出し、その人の足がピンと伸ばしたと思ったらさらに集中掃射を受けて、その人が動かなくなったのを私は見ました。祖父は、怒りを込めて「私たち中国人は何の罪を犯したというんだ!」と叫びました。父も怒りの声を上げていました。その場は、銃声や叫び声や泣き声などであふれかえっていました。祖父は、祖母は足を打たれて血が噴き出し、怪我もし、妹も殺されてしまった、日本兵はひどいなどと憤りを込めて叫んでいました。父は、私に麦わら帽子を被せてくれて、「心配するな。大丈夫だ。怖がるな。」と言って慰めてくれました。私は、ワーッと泣き出してしまいました。

 その後、銃声や泣き叫ぶ声がだんだんと小さくなっていきました。私はかぶっていた麦わら帽子を上げて周りを見たところ、日本兵が倒れている人たちの体に銃剣を指しながら歩いているのが見えました。日本兵は、少しでも息のある人を見つけると、何度も何度も銃剣でとどめを刺していました。
  また、子どもが身を起こして、「お母さん。お母さん。」と泣き叫んでいるのが見えました。すると、日本兵がその子どもめがけて銃剣をぐさっと突き刺しました。子どもは悲鳴をあげて動かなくなりました。私は、身の毛もよだつような怖さを憶え、麦わら帽子を深くかぶり直しました。
  私は、日本兵が私のそばにも近づいてくるのを感じました。心臓がどきどきして、恐くて、帽子をかぶってずっと動かずにいました。すると、1人の日本兵が硬い軍靴のかかとで私の右の腰骨を蹴飛ばしました。私は、横向きの体制で地面に伏せていましたが、蹴られた勢いで体が仰向けになりました。日本兵は私の左肩を銃剣でガッと刺しました。私は、氷が体の中を走ったような、非常に恐ろしい気持ちになりましたが、それでも黙って歯を食いしばって我慢していました。

 日本兵はそのまま去っていきました。私が気づくと、全体が血の海に化していました。私自身、生きているか死んでいるかわからない状況でしたが、その光景を見て、「ああ。自分はまだ生きていたんだ。」ということがわかりました。
  日本兵が去った後、まわりは静まりかえっていました。すると、「生き残っている者は早く逃げよう。」「日本兵は行ってしまったから早く逃げよう。」という声が2回ほど聞こえました。父の様子が気になりました。父は目を見開いたまま、じっと私の方を見ていますが、起き上がろうとしませんでした。私は、父の体を引っ張ったり、父の手をかんだりと、父を起こそうといろいろなことをしました。しかし、反応はありませんでした。父をよく見ると、首のところから血の泡が噴き出していました。私は、そのとき初めて父が亡くなったことを知り、父にしがみついて「お父さん、死んじゃだめだ、死んじゃだめだ!」と言って呼びかけました。悲しく、辛く、苦しい気持ちでした。

  母の方を見ると、妹と一緒に地面に伏せていました。妹に被せていた小さな布団をめくると、妹は血まみれになって母の懐に抱かれて息が途絶えていました。母も妹も亡くなっていました。母の横にいた祖父母も亡くなっていました。祖父の手は土の中にのめり込んでいたのが印象に残っています。
  家族がみんな亡くなって、自分でどうしたらよいのか、呆然としてその場に立ち尽くしてずっと泣いていました。周囲からは、「逃げろ!」「また日本兵が来るぞ!」という声が聞こえました。私も逃げなければと思いました。しかし、家族がみんなこの場で亡くなっているので、どうしてもここを離れ難い気持ちでしばらく立ち尽くしていました。

 しばらくして、私はその場を離れました。離れる途中、平頂山の集落は火の海、虐殺された現場は死体の山でした。私は、怖い気持ちと、肉親を残したことで辛く悲しい気持とでいっぱいでした。逃げている途中で、もし日本兵が追いかけてきて捕まったらどうしようという恐怖感でいっぱいでした。
  私は、父方の祖父母の家にたどり着くことができました。祖父母は、平頂山の虐殺のことは知りませんでした。私から話を聞いて、祖母は私を抱きしめ一緒になって泣きました。その日は夕食を食べることはできませんでした。
  私は,祖父母の家で暮らすことになりました。祖父母の家は生活が苦しかったので,私は牛飼いの仕事をしながら家計を助けました。仕事をしていても、平頂山での虐殺の事件のことが頭から離れなくて、毎日毎日悲しく辛い思いで泣いていました。夜になると夢を見てうなされて目を覚ますことが何度もありました。

 私は、平頂山の生存者であることを隠して生活をしていました。生存者であることが知られると、日本の憲兵に捕まって処刑されるのではないかと恐れていたからです。結婚するときも、妻には黙っていました。しかし、1945年8月に日本が戦争に負けたことを知り、私は自分の感情を抑えることができずに思わず涙を流しました。それを見て、妻が泣いている理由を尋ねたので、そのとき、私は初めて、自分が平頂山事件の生き残りだということを話しました。妻は、私のことを非常に案じてくれて、私と一緒に泣いてくれました。

 1952年ころ、私は、自分の体験を初めて人前で話しました。しかし、話をした後、眠れない状態が続きました。床に入っても、平頂山事件当時の現場の状況が夢の中に出てきました。そうすると、気持ちが辛く、苦しく、悲しく、うなされる状況でした。それが1週間ほど続きました。そのため、一時期、事件について話しをするのをやめたことがありました。
  しかし、しばらくしてから、少しずつ人前で事件ことを話すようになりました。話をするたびに、私に同情してくれる人、慰めてくれる人、支えてくれる人が増えてきました。
  1972年の日中国交回復後、日本からの女性からなる団体の前で、平頂山事件での自らの体験を話したことがありました。そのとき、参加者から、平頂山事件のことは知らなかったこと、私たちも日本の軍国主義の残虐な行為を非難するというようなことを言われました。私は、日本の人民も中国の人民と同じように、平和を愛しているんだということを知りました。
 私は、1973年まで、発掘された遺骨がある虐殺現場に行くことができませんでした。事件から40年も経て、初めて現場に行き遺骨を見ました。その時、私は、8歳のときに体験した辛く悲しい当時の現場に戻ったような気持ちになって、その場で泣きました。

私は1997年に初めて日本に来ました。そのとき、2つの心配事がありました。一つは、私が来日して平頂山事件のことを話したら日本政府は非常に不満をもつのではないか、二つ目は、平頂山事件のことを日本の人々が聞いたらどのように感じるのか、という点でした。日本に来てみたら、日本の人たちは非常に親切で、私たちのことを支持してくれており、非常に正義感をもった人たちだということがわかり、私の心配していた気持ちが払拭されました。

私は、日本政府に対して、事実を認めて謝罪をしてもらうことを求めています。平頂山の3000人あまりの同胞と私の両親に代わり、日本の軍国主義が中国への侵略戦争で犯した極悪非道の罪行を暴露する歴史的な義務があると思います。私が歴史の証人として自らの体験を訴えていくことで、半世紀あまりにわたり私の心のなか、気持ちのなかに積もり積もった屈辱と苦しみをはらしたいと思います。さらに。平頂山の3000人あまりの同胞と私の両親が、何の罪も犯していないのに虐殺されたことについて、償いを実現したいと思っています。正義の声、日本と中国の人民は平和を愛する人民であることを私は固く信じています。日本政府は、必ず歴史の事実を認めて謝罪をすべきだと思います。これからの日本と中国が友好関係を築き、日本と中国の領土に二度と再び戦争を起こしてはならないと思っています。

(2001年12月19日東京地裁で行われた本人尋問調書の要旨)