証言

「死んでいる人たちの上を歩いては転んで逃げる」

当時、私は11歳でした。お父さんは李清寿、撫順炭鉱で働いていました。お母さんは主婦でした。下に8歳、4歳の弟2人がいました。お父さんは病弱だったうえ、炭鉱夫として過酷な仕事をさせられ、病気になりました。そのため炭鉱をやめて失業し、家族の生活はどん底でした。下の弟も病気がちで、4歳でなくなりました。

1932年9月16日の前夜、皆が寝静まった後、外で「殺せ!殺せ!」という声がしました。私は怖くて、庭の貯蔵庫に大人たちと隠れていました。翌朝大人たちが、外が静かになったのを確認して、私を呼びに来ました。後でわかりましたが、当時の「大刀会(抗日義勇軍)」が平頂山を通ったのでした。貯蔵庫の穴からあがって外の無事を確認し、私たち一家も普段の生活をしようとしました。

朝の9時か10時ころ、日本兵を乗せたトラックが平頂山に来ました。日本兵は、私たちに銃剣を突きつけて、家から追い出しました。近所に病気のおばあちゃんが住んでいました。身振りで外に出ろと言われましたが、おばあちゃんは起き上がれなかったので、その日本兵は無残にもおばあちゃんを刺し殺しました。お父さんはそれを見て、私たちにも外に出るように言いました。私と弟、両親4人は、背後に山があり、落花生等が植えている場所に連れて行かれました。

そこにはすでに大勢の人が集められていました。黒い布をかぶせたものがあり、みんなは「写真をとるんじゃないか。」などと話をしていました。
日本兵は何か喋っていましたが、周囲が騒がしくて何を言っているのかわかりませんでした。とにかく「座れ。」と言っていました。日本兵が「朝鮮人はいるか?」と言ったところ、朝鮮人が出て行きました。まさにそのとき、黒い布がはずされて機関銃が現れました。その機関銃は扇のように私たちにむけられていました。機銃掃射が始まり、多くの人が倒れました。裏の山に登って逃げようとする人たちが、撃たれて、ボールにように転がり落ちてきました。

私も裏山に逃げようとしました。しかし、お父さんに「ふせろ!」といわれたので、山に逃げることができずその場に伏せました。私の隣にいた8歳くらいの男の子が、「お母さん!お母さん!」と泣きわめいていました。私は「静かに。死んだふりをして。」と言いました。しかし、その子は泣き止まず、結局銃で撃たれました。その後もしばらく機銃掃射は続きましたが、やがて機関銃の音が止みました。

その後、一発ずつの銃声が聞こえました。一人ずつ射殺していると思いました。軍靴の音がしました。泣き声も聞こえました。日本兵が自分に近づいてきていると思いました。日本兵に足を踏まれました。背中を銃剣で刺されました。すごく痛かったが、私は痛みを耐えていました。その場面を思い出すだけで悲しくなります。別の子の内蔵が見えたので恐ろしかったです。

やがて静かになりました。あるおばあちゃんの声で「日本兵はいなくなった。逃げよう。」という声が聞こえました。それで私も立ち上がって後ろを見ると、周りは血の海でした。遠くでは家が燃えていました。血の海と火の海でした。
その後、お母さんとお父さんの名前を呼びながら捜しました。お父さんの着ている服に似ている服の人を引っ張りだしましたが、お父さんではありませんでした。死体はどれもひどく重たく感じられました。どうしたらよいかわからず、さきほど声がしたおばあちゃんもどこにいるのかわからない状況でした。

ぼおっとしていたら、遠くに年配の男性が一人いるのを見つけました。私は、その男性を追いかけようとしました。その男性も動いていました。たくさんの死んでいる人たちの上を、歩いては転んで、また歩いては転んで、それで全身が血だらけになりました。
年配の男性は太っている人でした。左の肩から背中に血が見えました。その人は背中の肉の間から血を流しながら逃げていました。私は、その人を必死に追いかけました。数メートルくらい後ろから男性にくっついて走っていました。
その人が高梁畑に入ったので私も追いかけて行きました。どこをどう走ったのか,道のりはわかりませんが、栗子溝に入りました。その人がある人の家の中に入っていったので、私も追いかけて行きました。

その家には「栗」という名前のおばあさんがいました。栗おばあさんは、「あなたたちどこから来たの?」と聞きました。私は、自分でどこを怪我したのかもわからない状態でした。私の頭には、骨,血,脳みそがくっついていました。骨と血は払ったら落ちましたが、脳みそは払っても落ちませんでした。その後も1ヶ月以上,私の髪の毛にくっついて取れませんでした。このことは強く印象に残っています。
私は背中に怪我をしていました。しかし、栗おばあさんの家には薬がないので,背中に灰を塗って治療しました。栗おばあさんは,「親がいないならしばらくここで暮らしましょう。」と言ってくれました。栗おばあさんには、息子一人と娘が二人いたため、私は彼らの末っ子のようなものでした。そこで三番目の娘というあだ名を付けてもらいました。

栗おばあさんの家には3、4日間泊まりました。しかし、その家にも日本兵が来るおそれがあることから、栗おばあさんの家族と一緒に、別のところに逃げることになりました。私たちは、小高い山の上にある広い庭付きの家にたどり着きました。私たちは、しばらくそこで過ごしました。

ある時、栗おばあさんから、「あなたのおじさんという人が来ている。本当にあなたの親族なら帰っていいが、違うなら売られてしまうから、きちんと確認した方がよい。」と言われました。そこでその人を見ると、見知らぬ人でした。その人は一緒に帰ろうといいました。しかし、知らない人だったので、外に逃げ出して、裏山にしばらく隠れていました。そして、日が暮れてから、栗おばあさんのところに戻りました。

広い庭付きの家で10日以上過ごした後、栗おばあさんの家族と一緒に栗子溝に戻りました。
栗子溝に戻ってしばらくしてから、栗おばあさんの家を訪ねてきた老人が偶然私のことを知っていて、「これは李さんのところの娘だ。」と言いました。そして、お父さんやお母さんのことを聞かれました。また親戚のことを聞かれたので、撫順におばさんとおじさんがいることを伝えました。

その後、おじさんとおばさんが私を迎えに来てくれました。やっと自分の親戚に会うことができ、抱き合って泣きました。私のことを連絡してくれた老人も、助けてくれた家族も、みんな泣いてくれました。

その後おばさんのところに行きました。おばさんからは、平頂山のことは絶対に話さないようにと言われました。姓も「李」から、おばさんの姓の「王」に変えるように言われ、「王質梅」という名前を付けられました。それからは王質梅の名前を使っています。

12歳になったとき、おばさんらと一緒に撫順から長春に引っ越しました。おばさんの家も貧しいので、早く私も仕事をして家庭を助けようと思い、薬の包装をする仕事を見つけました。その後日本人が経営する丸善で働きました。その後も平頂山のことを心の中に秘めて生きてきました。

(平頂山事件訴訟弁護団が2008年8月23日に長春(中国)で聴取した内容の要旨)